愛するということ 新訳版
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2 章 : 愛の理論
1 : 愛、それは人間の実存の問題にたいする答え
アダムとイヴが知恵の実を食べた後に 「自分たちが裸であることを知り、恥じた」 のは、性器が丸見えになったことからくる当惑などではなく、お互いに異なった孤立した存在であることを認識したうえで、まだ愛によって結ばれることがないから そうなんだ? nobuoka.icon
人間の最も強い欲求は、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出すこと
いつの時代も同じ
いかにして合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体感を得るか この目的に全面的に失敗したら、発狂するしかない
問題は同じだが、解決方法は様々
合一 (孤立の克服) のために使われてきた完全ではない 3 つの方法
祝祭的な融合から得られる一体感は一時的
集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感
完全な答えは愛 (人間どうしの一体化、他者との融合) 自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間のもっとも強い欲望 この欲望が、社会を結束させる
ただし、愛といってもいろいろある
妊娠している母親と胎児のような。 母親は胎児の全世界であり、母親は胎児を保護するが自身の人生が胎児によって拡大する
心理的な場合は、体は独立しているが心理的には似たような愛着 お互いに依存している
同じ人物が、ふつうはべつべつの対象にたいして、サディストにもマゾヒストにもなりうるという事実も、それほど意外ではなくなる。 ほかの人びとから人を隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力
愛によって、人は孤独感・孤立感を克服する
一方で、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない
活動という言葉の意味があいまい
一つの意味 (現代における意味) は、自分の外にある目的のためにエネルギーを注ぐということ
もうひとつは、外界の変化には関係なく、自分に本来備わっている力を用いること
愛は何よりも与えることであり、もらうことではない
生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。 与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の力、富、権力を実感する。 この生命力と権力の高まりに、私は喜びをおぼえる。 私は、自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びをおぼえる。
商人的な人は見返りを求めて与える
非生産的な人は与えることは貧しくなることだと考えている
与えることは苦痛だからこそ与えることが美徳だと考える人もいる
という文脈で
与えるという行為のもっとも重要な部分は人間的な領域にある (物質の世界にではない)
人は他人に、物質ではなく、自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与える
他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない
自分のなかに息づいているものを与えるということ
自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与える
自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める
もらうために与えるのではなく、与えること自体がこのうえない喜び
とはいえ、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる
ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになる
与えるということは、他人をも与える者にするということであり、たがいに相手のなかに芽ばえさせたものから得る喜びを分かちあう
物質的にはたくさん持っている人ではなくたくさん与える人が裕福である、という話から
愛についていえば、愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができない
愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。 あらゆる形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも、愛の能動的性質があらわれている。 その要素とは、配慮、責任、尊重、知である。 配慮、責任、尊重、知はたがいに依存しあっている
これらは成熟した人間に見られるもの
今日では、責任とは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされているが、ほんとうの意味での責任は完全に自発的な行為 「責任がある」 というのは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味
尊重がなければ、支配や所有へと堕落する
人を尊重するには、その人のことを知らなければならない
知がなければ配慮も責任もあてずっぽうに終わる
一方で知も、気づかいが動機でなければむなしい
自分自身に関する関心を超越して相手の立場に立って初めてその人を知れる
他人を知ることと愛の間のもっと根本的な関係
孤独を抜けて他人と融合したいという基本的な欲求は、「人間の秘密」 を知りたいという人間的な欲求にかかわっている
自分のことを知っているし、友人のことも知っているが、ほんとうには知らない。 なぜなら私たちは物ではないから
どゆこと? nobuoka.icon
自身や他人の存在の内奥へ深く踏み込めば踏み込むほど、知りたいと思う目標は遠ざかる
秘密を知る一つの方法は他人を力で抑え込み、自分の望むように動かし、自分の望むように感じたり考えたりさせること
そのひとは 1 個の物になり、私の所有物になる
わからん nobuoka.icon
人を苦しめたいという欲望であり、そうする能力
人を拷問にかけ、苦しめて、秘密を白状させる
子どもが動物をバラバラにしたりするのもこれで、物や生命の秘密を知りたいという欲望に動機づけられている
そうなのかー (ほんまか?) nobuoka.icon
秘密を知るもう一つの方法が愛
能動的に相手の中に入っていくこと。 その結合によって相手を知りたいという秘密が満たされる
サディズムは、知りたいという欲望が動機ではあるが、破壊でしかなくて何も知ることができない。 愛こそが他の存在を知る唯一の方法
上で 「秘密を知る方法は他人を力で抑え込み……」 ってゆーてたやんけ…… nobuoka.icon
人間を知るという問題は、神を知るという宗教的な問題と平行関係にある 人間同士の合一体験も、宗教における神との合一体験も、非合理的なものではない。 むしろ合理主義の帰結
私たちの知には本質的に限界があり、人間や世界の秘密を捉えることは決してないが、にもかかわらず愛の行為においては知ることができる、という認識
上述の、人間の孤立の克服としての愛、合一願望の実現としての愛 (合一への普遍的・実存的欲求) とは別に、もっと特殊な生物学的な欲求がある
男と女という二つの極の合一の欲望
人間が人間を創造することの基盤でもある
同性愛という逸脱は、この両極の合一の達成の失敗である。 だから同性愛者は、解消されない孤立の苦しみを味わう。 だが同性愛者だけでなく、愛することのできない異性愛者も同じ失敗をしている 孤立の克服としての愛の話はまあいいとして、動物的な結合の願望についてはめちゃくちゃやな nobuoka.icon
フロイトの見解で性を捉えると、性的満足を得る理想的な方法はマスターベーションということになる 3 : 愛の対象
愛する対象による様々な種類の愛
3 章 : 愛と現代西洋社会におけるその崩壊
現代社会の特徴である病んだ愛 (現代西洋社会における崩壊した愛)
「チームワーク」 としての愛
病んだ愛がどんな形をとるかは人によってさまざまだが、結局は意識のうえに苦しみをもたらす
大人数で円滑に協力し合う人
飽きずに消費する人間
好みが標準化されていてほかから影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間
自分を自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも従わないが、それでいて命令には従い、期待に沿って行動し、摩擦を起こさずに社会という機械に自分をすすんではめこんでいくような人間 結果、現代人は、自分からも仲間からも自然からも阻害されている
個々人は集団に密着して身の安全を確保しようとするが、誰もが孤独でいる
愛にめぐる状況もこれに呼応している
愛や結婚についてのこのような考え方は、孤独感からの避難所を見つけることに一番力点が置かれている
世界に対して 2 人の同盟を結成する → 2 倍になった利己主義、これが愛や親愛の情だと勘違いされている 4 章 : 愛の練習
一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ
集中できるということは、一人きりでいられるということ 自分の足で立てないから他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるが、その関係は愛の関係ではない
くだらない会話を避けることに劣らず重要なのが、悪い仲間を避けるということ
悪い仲間とは、たんに悪意ある破壊的な人たちのことだけではない
ゾンビのような人、つまり肉体は生きているが魂は死んでいるような人も避けるべき
くだらないことばかり考え、くだらないことばかり話すような人間も避けたほうがいい
集中すること、自分自身に対して敏感になること
ナルシシズム傾向のつよい人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験
外界の現象はそれ自体では意味をもたず、自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験される
ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性
人間や物事をありのままに見た客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によって作り上げたイメージと区別する
子どものときに抱いていた全知全能への夢から覚め、謙虚さを身につけたときにはじめて、自分の理性をはたらかせることができ、客観的にものを
他人を 「信じる」 ということをつきつめると、人類を 「信じる」 ということ
子どもを 「信じる」 ことと同じく、人類を 「信じる」 ということは、次のような理念にもとづく
人間には可能性があるので、適当な条件さえあたえられれば、平等・正義・愛という原理にもとづいた社会秩序をうちたてることができる、という理念 人間はまだそうした秩序をうちたてるにはいたっていないが、だからこそ、きっとうちたてることができるという確信を抱くには、信念が必要 しかし、理にかなった信念がすべてそうであるように、この信念も願望思考ではない
人類がこれまでになしとげてきたことや、個々人の内的経験、つまり自分の理性や愛の経験によって裏づけられている
愛の習練にあたって欠かすことのできない姿勢 : 能動性 能動とはたんに 「何かをする」 ことではなく、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いること
自分が退屈したり、他人を退屈させないことは、人を愛するための大きな条件のひとつ
そのためには、完全に目が覚めていないといけない
今日、多くの人が目が覚めていても寝ている状態
人を愛するためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高める必要
そのためには、生活の他の多くの面でも生産的かつ能動的でなければならない
愛以外の面で生産的でなかったら、愛においても生産的にはなれない。
赤の他人を愛することができなければ、身内を愛することはできない
社会的な関係を、ふつうに考えられている関係から大きく変える必要がある
愛の練習にあたっては、まず愛と公平のちがいを知らなければならない 人を愛することができるためには、人間はその最高の位置に立たなければならない
人間が経済という機械に奉仕するのではなく、経済機械が人間に奉仕しなければならない たんに利益を分配するだけではなく、経験や仕事も分配できるようにならなければいけない 人を愛するという社会的な本性と、社会的生活とが、分離するのではなく、一体化するような、そんな社会をつくりあげなければならない
資本主義を支えている原理と愛の原理は両立しえないが、現代の資本主義社会で愛するということが可能なのか、という話